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Medapani Blog

メダパニブログ

大学の先生の話

大学でお世話になったゼミの先生が別の大学に行くと聞いて、僕は少なからず「ふうん」と思った。これは先生のことが嫌いだとかどうでもいいとかいう意味ではなくて、先生の教えを受けた上でそのような反応をする感性となってしまったせいである。
先生がどこへ行こうと、どんな大学に移籍しようと、元の大学にとっては損失かもしれないが、僕にとっては少なくとも全然ショッキングな話ではない。

もっとも先生は、僕を含めた元学生たちに、そういう思考をする人間になって欲しいと考え、教えたわけではない。僕が勝手にそうなっただけだ。先生としてはむしろ、そんな背中を僕に見せた覚えはなくて、ひとりの社会不適合者を卒業させてしまい不本意だと言うかもしれなかった。

さて、大学生にとって師事する先生とは極めて重要なものである。当たり前だが、いい先生もいれば悪い先生もいる。しかし、この良し悪しというのが高校までとは異なってくる。大学におけるいい先生というのは、熱血指導を行ったり、いじめの解決に奔走したり、進学のためにわかりやすい講義をしてくれる先生ではない。いや、これらの先生もいい先生であることは間違いないんだけど、僕が考えるいい大学の先生とは、学生の個性を平等に認めて引き出してくれる先生のことである。

僕の先生ははっきり言えばアタリだった。高校まで取り立てて何の注目も集めず、誰からも意見を求められなかった、平凡の権化のごとき生活を送っていた僕の考えを面白がって聞いてくれた。それだけではなくて「この件についてはどう思う」「君の思考ならこう考えたんじゃないか」と聞いてくれる。僕はそれまでの学生人生で初めて「考えていることをそのまま言ってもいいんだ」と感じた。
高校までの教室においては、発言権があるのもウケを狙っていいのも、クラスの人気者だけだった。僕は何かを思いついても数少ない友達とコソコソと話すだけで、それを表立って話すことは許されなかったし、教師たちにしても大抵は人気者たちの味方である。もしかしたら、勇気を出して何かしら発言してみれば認められる可能性はあったかもしれない。だけど、それを許さぬ空気が教室には満ちていたし、教師たちには生徒それぞれの考え方や個性を引き出そうという余裕はないように感じた。

もちろん、先生は僕以外の学生にも同じように意見を聞いた。それぞれの思考傾向を想像して、わざと正反対の意見をぶつけて揺さぶりをかけたり、自信なさげに反論する姿を見て楽しそうにニヤニヤしたりした。先生の中にはいくつもの思考回路が独立して起動していて、話の展開に合わせて自由に切り替えを行う。さっきまで言っていた意見とは正反対の意見をさも当然といった顔で話し、かと思えば全く違う視点からの解釈をぶつけてくる。ゼミの学生はみんな翻弄されたが、先生と話しているうちに自分の思考や意見がシェイプアップされていき、最終的にはその学生だけの主張が完成する。

僕はそんな先生を尊敬したが、不思議と先生のようになりたいとは思わなかった。自分は自分であり、たとえどれだけ捻くれていようが、小物だろうが、ヘタレだろうが、中二病だろうが、本質的ニートだろうが、八方美人のくせに協調性がなかろうが、それは肯定すべき自分の個性で、それを活かして僕だけしか考えられないような発想をできるようになろうと、そう思うようになっただけだった。

ここまで個性の発見がとても重要なことのように書いたが、ではその結果として、どこかいいとこに就職できたのかとか、何かしらの利益を生んだのかとか、社会貢献に繋がったのかと問われると、残念ながらそれらにはまったく当てはまらない。僕が個人的に自分を見つめ直して自己満足できただけであり、言うなれば1円にもならない自己分析である。だが、僕はその自己満足をとても大切にしている。社会的にはその他大勢に属する僕でも、中身は明確に他の人とは違う。当たり前のことなのだが、それに自分で気づくよう仕向けてくれた先生は、僕の価値観に照らせば間違いなく「いい先生」だった。

そんなわけで、僕は先生がどっか行くことに関して何とも思わない。どんなグループにいるか、どの場所にいるかは関係ない。先生は先生。僕は僕。それだけだ。
ただ先生の誤算は、散々就職の心配をした数名の学生が、恩をあだで返すがごとく逃亡同然の卒業したことだろう。最悪。

……という、自分でも何でこんなこと書いたかよくわからない自分語りでした。

おわり