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小説『銃』を読んだ話

前々から少しずつ読んでいた『銃』という文庫を読み終わった。小説で、主人公の大学生が偶然拾った拳銃に魅了されていくというお話。

たぶん読み終わるのに一ヶ月くらいかけたが、読みにくかったとかつまらなかったとかではなくて、ここ最近、僕の本を読むペースが極端に遅かっただけである。ちょっと空いた時間だとか、本を開くタイミングというのは日常の中にいくらでもあるのだが、なんだかこう億劫に感じてしまって、読書よりもスマホをいじったりとかラクな方に流されてしまうのが僕のこの頃の常である。そう思い返すと、僕は本や漫画を読んだりアニメや映画を観たりすることが好きなはずであるが、それらを楽しむことにすら度々面倒くささを感じてしまう時点で「夢中」にはなれていないのかもしれない。

探して書き出すのが面倒なので完全な引用ではないが、今回読んだ『銃』の中に次のような一文があった。


「人はそれぞれ何かに夢中になり打ち込むが、私にとってはそれが"銃"だった。それだけの話だ」


その言葉どおり、この作品の主人公は"銃"に夢中になる。それは主人公本人も自覚しており、"銃"に認められたい、気に入られたい、相応しい男になりたい等々、もはや恋愛感情とも取れるような想いを"銃"に傾けていく。そして、その想いはどんどん強くなっていき、やがて自分がその銃を使う姿を想像するまでになっていくのである。

人は何か(物でも人でも競技でもいいが)に出会ってそれに魅力を感じたとき、まずそれが欲しい、自分の物にしたい、と思う。仮にうまく手に入れられたとして、そこで想いが尽きていない場合、手にしているだけでは満足ができなくなっていく。大切にしたい、幸せにしたい、独占したい、使いこなしたい、できるようになりたい。そう考える。おそらくは、これが「夢中になっている」状態である。もしも、出会い、魅了されたものが"銃"であった場合、それを「撃ってみたい」との欲求に駆られるのは至極当然のプロセスなのだ。作中で"銃"への想いを延々と語る主人公は、端から見ると狂気的に感じられたり変態じみた印象を持たれたりする可能性すらあるのだが、"銃"に魅了された彼が注ぎ込む愛情や利己的な欲求は、極めて正常な過程を辿った上で形作られている。途中で面倒くささを感じたり、飽きたりする場合よりも極めて純度の高い「愛」であると言えるだろう。

ただ、彼の不幸は、心を奪われた対象が"銃"であるということである。法律的、社会的に認められないものに恋をし、人を傷つけてしまうものを愛してしまった。人間はその生においてたびたび選択を求められる生き物だが、自分が本能的に魅了され「夢中」になってしまうものが何であるかを選ぶことはできないし、それは出会うまでわからない。彼にとってはそれが"銃"であった。ただそれだけだというのに、そこには犯罪を犯したという名目の「責任」と、常識としての「"銃"を手放す」ということを要求される。

もちろん、銃を所持すること、人を傷つけることは正しいことではない。しかして、人の社会とは生きにくく、人間とは罪な生き物だな、とやるせなく思ったことが、僕の率直な感想である。彼がもっと平和的で、人から認められるものに価値を見出し「夢中」になれる宿命であったなら、彼の人生は大きく変わっていたに違いないのだ。

おわり